盲亀福願の明け暮れ

鯖空間が第二の家

9/26 障害の見方は当事者にしか分からなかった

9/26

目が覚めて「あぁ、今日はカウンセリングの予約をするんだった」と、微睡みながら現実を整理する。昨晩は、カウンセリングの日程が決まるまで、これからどんな姿勢で問題と向き合えばよいのかを考えていたので脳がずっと興奮している。

ボサッとしている間に他の学生に予約を取られたら堪ったもんじゃないので、寝起きにトイレへ行くのも、顔を洗うのも、スポーツドリンクで喉を潤すのも、全て我慢して電話に直行した。数千人単位の学校なので、いつ自分にカウンセリングの順番が回ってくるのか分からない不安がある。東京や都心部の大学に比べれれば、全然少なッ!!というレベルなんだろうけど、小中高と生徒数の少ない場所で生活していたので、私にとっては人だらけに思える。

3コール鳴る前に電話が繋がり、混んでいないことに安心した。自分の学科や相談内容を告げると、緊急性があると判断され、「日程調整が入る前に大きなことがあったら、すぐにカウンセリング室へ来てください。そういうのに詳しい人も学校に駐在しているので」と言われた。第三者が介入してくれることに救われ、電話をしながら少し泣いてしまい後々恥ずかしくなっている。

 

SNSでは発達障害者や知的障害者が苦手だと言えば、「差別だ!」と大きく批判される。福祉支援に足を入れた側からすると、背景も知らずにただ批判している人の方が、健常者に対する差別なのではと考える。

高校、大学と仲の良い友人に「発達障害、知的障害の人と結婚できる?」と聞いたことがあった。二人は「分からない」と答え、後の四人は「私だったら無理。度合いによるけれど、子どもに遺伝したら嫌だし」と答えた。私は後の4人のこの言葉に全てが詰まっているように感じた。表面上は障害を持っている人へのサポート体制を見せつつ、内面ではそう考えている所が。

もともと児童虐待や法律関係が気になり入学した福祉の大学だけれど、今回の件で絶対に介護や発達障害者支援の方面には行かないと強く誓った。支援をする人も、当事者も自分がその立場に回らなければ一生気持ちを分かる日は来ない。お互いが嫌な気持ちにならないように、自分に都合の良い世界を見続けることが一番いいと思った。

 

私はきっといい支援者にはなれないのだろう。